「浦潮」歴史探訪
30年前まで閉鎖都市だったウラジオストク。
その以前には日本人が6,000人近く暮らした、在外邦人の一大拠点でした。
21世紀の今にも息づく日露歴史浪漫の旅に、皆さまをご案内します。
日本から飛行機でわずか2時間の距離に位置するウラジオストク。
中国、朝鮮半島にも程近いこの街には、150年前の建設当時からアジア社会と大きな関わりがありました。
日露戦争、ロシア革命、シベリア出兵など、明治から昭和にかけて日本とロシアの関係は軍事・政治そして経済的にも接近し複雑に絡み合っていきます。
また、ウラジオストクはソ連時代に閉鎖都市となり、中には地元市民でさえ入れなかった場所もあるなど、軍事機密の多い街でもありました。
ロシア帝国、ソ連、そしてロシア連邦――3世紀に3つの国家を経験したロシアに、当時の日本人がどのように暮らしていたのか、どのようなコミュニティを形成していたのか、現存する建物や跡地を訪ねてその息づかいを感じにいきましょう。
まずは、ウラジオストクの成立から見ていきましょう。
ウラジオストクは1860年代に建設された比較的新しい街ですが、実はそれ以前から日本の長崎と既に交易があり、航路によって庶民同士が長年に亘り結ばれていました。
このような経過から、この街には多くの日本人が住んでいたと言われています。
ウラジオストクが開かれた直後の写真です。この街はロシアの東方進出において非常に重要な拠点とみなされ、急ピッチで建設されました。写真に写る軍艦の数からも、当時のロシア帝国がこの地をいかに重要な場所であるか、その認識を見て取れると思います。
建設されたばかりのウラジオストクには、商機を睨んで世界中から多くの商人たちがやってきてこの街の経済を賑わせました。街頭には大きな西洋風の建物がたくさん並んでいますが、これらは主にポーランド人やドイツ人、イギリス人などの建築家が設計したと言われています。
このような背景から、ウラジオストクは東アジア諸国と非常に近い位置にありながらも、他の街とは一線を画し、非常に欧風な街並みとなっています。
これが現在の同じ場所の写真です。120年以上前に建てられた建物が現存し、使われています。写真左側の建物の1階は、かつて「横浜銀行ウラジオ支店」が入居しており、今では博物館が入っていますが、その中に横浜銀行時代の金庫が残されています。
ウラジオストク建設当初から住んでいた日本人の写真です。彼らは元々捕鯨船で働いていたものの、その仕事が非常に重労働だったため逃げ出し、この地に住み着いたといわれています。
中央広場周辺の写真です。日本人の婦人の姿も見えます。当時ウラジオストクには多くの日本人が住んでおり、その理由として「日本国外でウラジオほど商売がしやすい街は他にない」と話していたといいます。
三階のバルコニーに日本の旅館の看板を見れます。
旧朝鮮銀行跡地。1922年の赤軍到来まで、日本のウラジオ派遣軍と積極的に取引を行っていました。(地図23)
旧浦潮日報社。1917年に第1号が出版。日刊で発行され、当時の現地の日本人にとっての重要な情報源でした。(地図13)
この建物は1876年から、日本人の貿易事務所として使われ始め、1907年に日本の総領事館となりました。現在は、ロシア連邦沿海地方の地方裁判所として使われています。(地図19)
旧松田銀行。1907年に開かれ、19年には朝鮮銀行浦潮斯徳支店となりました。(地図15)
浦潮本願地跡地。(地図14)
与謝野晶子記念碑。夫の与謝野寛を追って敦賀からウラジオにやってきて、シベリア鉄道に乗り込む際に詠んだといわれる詩が残っています。
シベリア鉄道の線路の近くにある古い工場跡地。これは、富山県きっての敏腕商人―堀江直造が建設し、今でもその姿を見ることができます。(地図18)
旧日本人学校。先述の堀江直造もこの学務委員を務めました。(地図22)
当時、日本人学校に通う学徒たち。
シベリア出兵時、日本軍が司令部として使っていた建物(1918~22年「浦塩派遣軍総司令部」)。1922年、赤軍の到来によってこの地に住んでいた日本人は殆ど内地に戻りましたが、残った一部の邦人はこの建物での生活を余儀なくされました。(地図16)
ロシアにおける柔道発祥の地は、実はウラジオストクだと言われており、その記念碑が残されています。(地図20)
ナホトカ市にある日本人墓地跡地。ウラジオから車で約4時間で、かつては閉鎖都市となったウラジオの代わりに日本との交易を支えた街でした。戦後の引揚船の出発地としても有名です。現在、ここに眠っていた遺骨は全て日本に戻され、ナホトカ市役所によって記念碑が整備されました。
アルチョーム市にある日本人墓地跡。
ヴォロシロフスカヤ要塞。ウラジオストク南部に位置するルースキー島の中心部に設置され、1933~97年の間、軍事関係者以外立ち入りが出来ず、実際に運用されていました。現在は一部が博物館として公開されています。(地図17)
砲身ひとつの重さは約51トン!
要塞の俯瞰図。この砲塔は以前は軍艦に設置されていたものです。
砲塔全体の重さは、1200トンにも上ります。
ウラジオストクにはこれほど大型の武器を作れる工場がなかったため、遠く黒海のクリミア半島から輸送されてきたそうです。
砲弾。重さは約470kg。射程距離は40km。
ウラジオストクは街中の高台という高台すべてに砲台が作られたため、ミリタリー好きの人にとっては魅力的なところと言えるでしょう。(地図21)
この要塞の下に張り巡らされたトンネルは、総延長約1,500メートル!
サバゲ―も出来ます。
ウラジオストクには多くの自動車に関する博物館がありますが、そのうちのひとつには、戦車も多く展示されています。
コースの地図
ツアー日程
Day 1
- 1) 19:00時 ウラジオストク空港で迎えます。ポーターが荷物を運んでくれます。
- 2) 20:10時までTransfer. 行く途中で簡単ロシア語教室。
- 3) 20:30時 レストラン夕食。
- 4) 22:20時 ホテル チェックイン
1-3名まで | 4-6名まで | 7-11名まで | 23名以上 | 所要時間 | 日本語ガイド | 食事 | 専用車 |
円
|
円
|
円
|
円
|
3:30時間 | Yes | No | Yes |
団体ごとの値段。
シーズンや状況によって値段が変わる可能性もあります。是非ご相談ください。
Day 2
ウラジオストクは観光スポットがたくさんあります。
お客様のご希望に応じて、オプションを付けたり、オリジナルコースを作ることも可能です。
1-3名 | 4-6名 | 7-11名 | 所要時間 | 日本語ガイド | 専用車 |
円
|
円
|
円
|
3時間 | Yes | Yes |
団体ごとの値段。
料金に含まれるもの:日本語ガイド、専用車、健康保険料。
シーズンや状況によって値段が変わる可能性もあります。是非ご相談ください。
Day 3
- 1)8:00時 中央広場、展望台。バスで行く途中に歴史についての話。
- 2)9:00時 買い物
- 3)10:20時 ウラジオストク空港へTransfer.
- 4)11:30 帰国。
1-3名まで | 4-6名まで | 7-11名まで | 23名以上 | 所要時間 | 日本語ガイド | 食事 | 専用車 |
円
|
円
|
円
|
円
|
3:30時間 | Yes | No | Yes |
団体ごとの値段。
シーズンや状況によって値段が変わる可能性もあります。是非ご相談ください。
コメント
当社のコースの特長
- 安全第一
- 必ず保険加入
- ユニークなツアー
- プロのガイド、通訳。
- ビジネスツアーのプログラムもご用意。
- ご希望に応じてプログラムを作成。
- 空港の送迎。
- ポーターが荷物を運んでくれます。